2017年




ーーー1/3−−− 熟年パワーの地域活動


 
住んでいる地区に、親水公園という名の公園がある。公園と言っても、子供向けの遊具が設置されているわけではなく、小さな池と芝生の広場とあずま屋、それらを囲む植え込みと簡易トイレがあるだけの、地味なものである。旧穂高町時代に、農業用水路の沈砂池として設置されたと聞いた事がある。それが長年に渡り手入れがされておらず、荒れて藪のようになっていた。

 数年前に地域住民の有志が立ち上がり、市に掛け合って指定管理者となり、整備を始めた。私も当時地区の役員をやっていた関係から、そのメンバーに加わった。芝を刈り、植え込みの剪定をし、不要木を伐採し、トイレの掃除をする。メンバーの中に一人植木職人がおり、その人が音頭を取って作業を進める。全員60歳過ぎの熟年パワーである。各自が草刈鎌、剪定鋏、レーキ、チェーンソーなどを持ち寄って集まり、黙々と働く。大きな枝を運んで積んで燃やすなどという作業は、けっこうな重労働である。

 ボランティア精神で始まった行為だが、有償である。市から予算が下りる。それを作業時間で割り振って、メンバーに支給する。市民が自発的な善意で行なう作業でも、行政がそれを必要と認めれば、タダでやらせることは、現代ではもはや無いそうである。

 先月の末には、松の木の枝を切る作業をした。高さ20メートルほどのアカマツが道路沿いに数本あり、その枝が道路の上に張り出していて、降雪があれば枝が折れて落下するなどの危険があるからだ。作業は道路を閉鎖するので、警察から許可を取った。通行止めの表示を置き、迂回路を指示する看板を周辺の要所に配置した。

 植木職人のY氏が、レンタルの高所作業車を運転してきた。そして自らクレーンの先端の箱に乗り込み、作業開始。箱を上下左右に移動し、チェーンソーで枝を切り落とす。残りのメンバーは、地面に落ちた枝を拾い集め、手頃な大きさに整えて、軽トラに積む。それを、市が指定した廃棄場所へ運ぶ。最終的に、軽トラで5台分の量になった。

 午前中で終る予定だったが、予想以上に時間がかかり、全てが終了したのは午後4時過ぎだった。その日は朝から穏かな晴天で、助かった。もし雨や雪だったら、過酷な作業になっただろう。あるいは中止にしたか。中止にすれば、日を変えて実施するための手続きが、また面倒だっただろう。ともあれ、無事に終わって良かった。

 こういう作業を、地域住民が行なうというのは、あまり例が無いと思う。普通は業者に委託する。専門性が薄い作業なら、シルバー人材に頼むこともあるだろう。しかし、そういう外部へ頼むと、一回きりの作業で終ってしまう。地域の施設を、継続的に整備していくには、地域住民が関わるに越したことはない。

 地域の役に立ち、そこそこの報酬も得る。やりがいのある事である。仕事の奪い合いにでもなれば話は別だが、高齢化が進む社会では、そのような事も無いだろう。むしろ熟年世代が、自発的に仕事を作り出し、地域に貢献するというのは、好ましい事だと思う。

 



ーーー1/10−−− 酒に飲まれる愚


 
正月に帰省した息子から、「お父さん少しお酒の飲みすぎだよ」と言われた。その息子も、かなり飲む。二人で飲んで、いい気分で盛り上がっていたつもりだった。その相手から、シラフの時にそんな事を言われて、ちょっとギョッとした。

 健康上のアドバイスではない。飲み過ぎると、相手に不快感を与え、コミュニケーションを阻害すると言うのである。

 酔っ払いの特徴は、大声で話す、一人で喋る(他人の話を聞かない)、同じ話を繰り返す、だと息子は言った。そんな事は私も十分に理解している。しかし、自分がそのように見られたとは、意外だった。

 さらにこうも言った、「住宅街における隣家との騒音トラブルで一番問題なのは、掃除機や洗濯機の音ではなく、オーディオの音だと言われている。その理由は、掃除機や洗濯機の音は、誰にとっても騒音だが、オーディオの音は、他人には騒音でも、発している本人にとっては楽しみだからである。聞かされる方としては、他人の楽しみで自分が迷惑をこうむっているわけで、その理不尽さが大きな不満となって、感情的な反発を招く」と。

 酔っ払いの話も、それと同様だと言うのである。酔って自分の世界に入り込み、ベラベラと自説をまくし立てる。当人は悦に入って、楽しい気分である。それ故に聞かされる方は、うんざりを通り越して、不快感、嫌悪感を抱く。自分に苦痛を与えながら、その張本人が無頓着に浮かれているからである。

 かような状況では、コミュニケーションは一方通行になる。先に述べたように、酔っ払いは相手の話を聞かないからである。その一方通行の受け手側には、相手の勝手な行為で、自分だけが苦痛を受けるという、不公平感がつのる。それが、会社の上司と部下のような関係だったら、不愉快でも我慢すべき事として受け入れることもできよう。しかし、家族や友人など、対等な立場で、愛情や信頼で繋がっている者どうしであれば、酒のせいとはいえ気遣いの欠如した迷惑行為が、感情的なしこりを招く危険は、想像に難くない。

 「酒は飲んでも飲まれるな」という戒めで始まった新年であった。




ーーー1/17−−− 冷や汗物のケーナ演奏


 昨秋、松本でグループ展を行なった。展示室の壁に張ったプロフィールに、趣味は笛と書いておいた。こんな事でも、何か話題のきっかけになればと思ったのである。

 お世話になっている教会の牧師様ご夫妻が会場に来て下さった。この記述を見て、「何の笛ですか?」と聞かれたので、「ケーナなどです」とお答えすると、「クリスマス礼拝の後の祝会で、演奏してもらえませんか?」と言われた。即座に、「はい、分かりました」と返事をした。早速ヒットしたという気がした。

 ケーナは20年ほど前からたしなんでいる。一時は熱心に取り組んだ。人前で演奏をした経験は多数有り、クラシック音楽マニアの人に褒められたこともある。だから、そこそこ自信はある。しかし、正直なところ、最近はほとんど練習をしていない。発表する機会がめっきり減ったからだ。練習をやり直さなければ、まともな演奏は出来ない。ちょっと遠ざかっていたケーナに、再び向き合うことになった。

 しかし、すぐには練習を再開できなかった。この秋は、長女が第二子を出産するために帰省していた。孫も一緒だったので、てんやわんやの毎日だった。とてもケーナを吹けるような状況ではなかったのである。

 11月の初めに長女が大阪へ帰った。数ヶ月ぶりに静かな生活が戻った。そこで、遅ればせながらケーナの練習に着手した。

 久しぶりに吹いたので、調子が出なかった。ケーナは唇を締めて息を吹き出し、それを歌口に当てて音を出す。唇を締める力が弱くなると、クリヤーな音が出なくなる。練習をサボると、それがてきめんに現れる。しかし、そんな事は想定内である。しばらくすれば、元の状態に戻ると予想した。過去にそのような経験が何度もあったので、心配はしなかった。

 ところが、である。一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎても、事態は改善されなかった。まず、指を間違える。これまでミスなど考えられなかったところでミスる。また、音が良く鳴らない。音程も不安定。ロングトーンやオクターブのトレーニング、早いタンギングの練習などの基本練習を積み重ねても、なかなか以前の良い状態に戻らない。残り二週間ほどになると、さすがに焦ってきた。

 不安を抱えたまま、当日となった。数日前から、演奏時間帯を想定したリハーサルも行なった。朝一番で音出しの練習をし、昼の12時過ぎに演奏曲をさらうのである。最後まで満足が行く出来にはならなかったが、やるべき事は全てやったので、気持ちは落ち着いていた。

 礼拝堂は良く音が響いた。それに気を良くしたせいか、過剰に吹き過ぎた。曲の途中で音色が乱れ、慌てた。演奏がストップしてしまうのではないかと言う恐怖を感じた。しかし、曲想が変わる部分で持ち直し、なんとか最後まで演奏することが出来た。慌てて取り乱し、へどもどしている私を見て、神様が哀れんで下さったのかも知れない。

 会が終了すると、何人もの人が寄ってきて、素晴らしい演奏だったと感想を述べてくれた。私は内心恥ずかしさを覚え、非常に照れた。しかし、多くの方々に楽しんで頂けた事は、率直に嬉しかった。

 世界的に活躍をしているピアニストでも、60歳を過ぎた辺りからコンサートに対して臆病になると聞いたことがある。全盛期のような演奏ができない恐れからだと言う。身の衰えは、他人が想像する以上に、当人にとっては深刻なのである。

 ともあれ、今回はいろいろな意味で勉強になった。芸は身を助けるという言葉がある。一度身に付けたものは、日頃から精進をして維持していくことが大切だと気付かされた。歳とともに衰えていくのは仕方ないが、それを自覚しつつも、自分を励まして精進をする。たたるような無理を伴わなければ、それもまた楽しからずや、である。





ーーー1/24−−− 年賀状を止める


 数年前から、12月になると気が重くなった。年賀状である。当時は200枚くらい出していた。それを印刷し、発送作業をするのが、歳のせいか、とても面倒に感じられるようになったのである。

 2014年の12月、思い切って発送先を減らした。およそ100まで絞り込んだ。この選別作業は、いささかの苦悩を伴った。単なる仕事関係の宛先は、切るのは簡単だったが、知り合い個人となると、その人の顔が浮かび、外すのが忍びなかった。さんざん迷った挙句、ようやくリストを整えた。

 昨正月は、喪中のため年賀状を出さなかった。それがワンクッションになったとも言えようか、この冬になって、さらに縮小することを考えた。 年賀状を出すのが面倒だという理由もさることながら、はたしてどれほどの意味があるのかという疑問も無くはなかった。そしてついに、全面的に廃止という結論が出た。選別をして減らすなどというのは、むしろ禍根を残すように思われたのである。

 その決定は12月下旬だったので、これまでお付き合いのあった方々に連絡をするにはタイミングが遅すぎた。そこで、年が明けてから、年賀状を寄越して下さった方に、お礼方々その旨を記載して葉書を出した。

 丁寧に作られた年賀状に、「お元気ですか」などと手書きされたものを送ってくれた方も多い。それは嬉しく、有り難いことであった。そのご好意に水を差すような通知を送るのは、申し訳ないような気がして、気がとがめた。しかし、迷っていてはきりが無いので、予定通りに行なった。

 何か言ってくる方もおられるかと思ったが、何の反応も無かった。それでちょっと気が楽になった。

 以前、送付先を削ったら、翌年から届く数がぐっと減ったことがあった。今年来たから来年も送るという連鎖を繰り返して来た人の中には、こちらが送らなければ、もう止めても良いと考える人がいても当然だ。止めにしたいが、自分からは行動を起こしかねるという人もいるだろう。来なくなって、ホッとした人もいるに違いない。

 ところで、過去何年にも渡り、先方はいっさい年賀状をくれないが、こちらが一方的に送り続けてきた相手も何件かある。元々年賀状を出すという習慣を持たない人もいるのである。そういう方々が、今年から突然寄越さなくなった私をどう思っただろうかと考えるのは、気の使い過ぎだろうか。





ーーー1/31−−− 「沈黙」の意味


 遠藤周作の「沈黙」を初めて読んだのは、大学生の頃だった。その時は激しく感動し、わが国にもこのような小説を書く作家がいるのかと、驚いたものであった。

 その後社会人になり、30歳台になって読み返したことがあった。若かりし頃の印象とはうらはらに、なんだか違和感があった。すんなりと心に入らなくなっていたのである。以来、この変化が自分の中でしこりのようなものとなり、折に触れて考えさせられた。

 日本へ派遣されたポルトガルの宣教師が、幕府に捕縛され、転び(棄教)をさせられたという史実に基いた話である。転ばせるために奉行が使った手段が、日本人のキリシタンを宣教師の眼前でいたぶり、殺すことであった。宣教師が転ばなければ、さらに多くのキリシタンが苦しみ、死ぬことになると、脅したのである。結局、宣教師は奉行の思惑どおりに転んだ。小説はそういうストーリーであった。

 違和感は、はたしてそのような事がありえただろうか?という疑問であった。

 「偉大な愛の行為」という表現が使われていたが、宣教師の立場で、それが愛の行為と言えるのか? 人質を取られて意思を翻すようでは、一般人と同じではないか? 神は沈黙したまま応えてくれないと言うが、神の沈黙という概念が、人類史上初めてこの時に出現したわけではないだろう。キリスト教会の中では、さんざん議論されてきたものではなかったか? キリスト教に関して全く素人だった私でさえ、そんな疑問を感じた。命がけで海を越えて来た宣教師が、そんな事で信仰を捨てるとは、どうしても思えなかった。

 一方、転びを強いた側の行動にも、疑問が残った。目的は宣教師を転ばせる事だけでしかない。本場の宣教師が転べば、日本のキリシタンは絶望し、希望を失い、信仰を維持できなくなる。だから、形だけでも転ばせれば良いのだ。何も手の込んだ策略を取る必要は無い。「穴吊り」という、極めて効果的な拷問が考案され、それにより既に多くの宣教師が転んでいた。それを行なえば済むことである。宣教師の信仰心に深く切り込み、その心がズタズタになるまで弄ぶ必要など無いのである。ズタズタにさせ、完全に信仰を捨てさせたつもりでも、人の心の奥底までは分からない。

 先日、新作の映画「沈黙―サイレンス」を観た。巨匠マーチン・スコセッシ監督が、30年近く構想を温めてきたという作品である。ほとんどは原作通りだが、ラストには原作に無い部分が付け加えられていた。この映画は、良かった。なんだか胸のつかえが降りたような気がした。

 自宅に戻り、本を引っ張り出して、最後の部分を読んでみた。オリジナルの部分と、そうでない部分を確認したかったからである。そうしたら、あとがきの文章が目に留まった。この話のモデルとなった宣教師は、実際は捕縛された後江戸へ送られ、穴吊りの拷問を受けて転んだと書いてあった。

 「偉大な愛の行為」は、著者による作り話だったのである。

 小説だから、作り話であっても構わない。しかし、二千年に及ぶキリスト教の、極めて深遠かつ深刻なテーマに関して、この作り話はいささかリアルな合理性を欠いていたように思う。その点に違和感を抱き、私は長年に渡りしこりを感じていたのだと理解された。

 転びが、拷問によるものだったとすれば、納得できる。肉体的苦痛が極限に達し、精神錯乱直前まで行くと、助かるためなら何でも、嘘であろうと真実であろうと、人間は無抵抗に喋ると聞いた事がある。それは生存のための本能であるから、仕方ない。宣教師に限ってその本能を有していなかったとは、考え難い。

 ところで、原作では「沈黙」は神の沈黙と位置付けられている。しかしこの映画では、違う意味で使われているように、私には感じられた。

 転んだ宣教師は、日本人の姓名を与えられ、日本人の妻を持たされ、失意と辱めの中で、残りの人生を過ごすことになった。その後半生、およそ40年間に渡る人生で、彼が守り通さなければならなかった沈黙、それを映画は表現したかったのではないか。人は他人に明かすことが出来ない苦悩を背負ったときに、つまり完全に孤独な沈黙を強いられたときに、はじめて神と対話すると言われる。映画のラストの無言の静寂は、その沈黙を意味しているように思われた。






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